◆今日、地下鉄の中で◆

　夜7時過ぎ、地下鉄に乗るためドアの前で待っていると、ロングコートを着た六十歳過ぎの小柄な老人が割り込んで来る。白髪でマスクを掛けているが背広で、サラリーマン風だ。
　地下鉄に乗り込んむとすぐ、足早に歩き回りそこここで怒鳴っている。なんだこいつはと思って見ていると、携帯を開けている人に「携帯を切れ、病人が乗っているだぞ！」と怒鳴っているの。
　ヒステリックに早口で恫喝する様子は、少々常軌を逸している。「あんたうるさいよ」と喉まで出かかったが、言葉を飲み込んだ。

　座席に座っている眼鏡をかけた恰幅の良い男が、老人の声にも負けず携帯を操作し続ける。老人の注意は彼一点に集中する。興奮しつり上がった目で「分からないのかお前、切れ、切らないのか」。眼鏡の中年男のほうは、「これゲームですよ、通信しているわけじゃないから電波出ていないです」と、あざ笑うように答える。i-modeでゲームをやっているのだろう。
　「切れ、切れ、切らなくてはいけないのが分からないのか」、「あんた分かんないの、これはゲーム」、「切れ、切れ、切れ」。
　その瞬間は見えなかったのだが、おそらく老人の手が中年男に当たったのだろう。「あんた暴力ふるったな、次の駅で降りてもいいんだよ」、「うるさい、車掌に聞いたら切れと言うに決まっているんだ」、「よし降りよう」
　車掌はそんなことは言わない。だって、都営三田線はワンマン運転をしていて、車掌なんかいないんだから・・・。

　こういうときには仲介役、なだめ役になったり、一方に文句をつけたりと口出しすることが多い。しかし、今日は二人のやりとりに入っていくすき間がない。疲れた私自身にそこに入っていく根性もない。なんたって一人は常軌を逸しているし、一人は異様に頑なだ。
　暴力沙汰にはなっていないし、そうはならない雰囲気だ。もしケンカになったとしたら恰幅のいい中年男の圧勝だし、ホームでも誰かが止めるだろう。

　言い争いを続けた二人は、結局次の駅で降りていった。乗降客のすき間から見えた二人の最後の姿は、駅員を探しているような感じだったな。
　私はどうしたか？ その中年男が去った普通なら座れなかったはずの席に座り、今あった出来事をボーっと想い続ける。

<2002/12/17>